【編著者プロフィール】
増田 雅暢(ますだ まさのぶ) 1954年生まれ。東京大学教養学部教養学科卒。厚生省に事務官として入省、主として企画法令関係の業務を担当。岡山市民生部長、九州大学法学部助教授等を経て、2002年(平成15年)8月から国立保健医療科学院福祉サービス部長。早稲田大学大学院法学研究科講師を兼務。
主な著書に、『わかりやすい介護保険法(新版)』(有斐閣、2000年)、『世界の介護事情』(共編著、中央法規出版、2002年)など。
菊池 馨実(きくち よしみ) 1962年生まれ。北海道大学法学部卒。同大学院法学研究科博士課程修了。大阪大学助教授を経て、現在、早稲田大学法学部教授。社会保障法専攻。
主な著書に、『年金保険の基本構造』(北海道大学図書刊行会、1998年)、『社会保障の法理念』(有斐閣、2000年)、『社会保障法』(共著、有斐閣、2001年)、『目で見る社会保障法教材』(共編著、有斐閣、2001年)、『雇用・福祉・家族と法』(共著、放送大学教育振興会、2003年)など。
長沼健一郎(ながぬま けんいちろう) 日本福祉大学社会福祉学部助教授
堀田聰子(ほった さとこ) 株式会社UFJ総合研究所 経済・社会政策部研究員
香取 幹(かとり かん) 株式会社やさしい手 常務取締役
大石克子(おおいし よしこ) 在ロサンジェルス
岸田孝史(きしだ たかし) 特別養護老人ホーム 緑陽苑施設長
松本憲二郎(まつもとけんじろう) 特別養護老人ホーム あいサンホーム施設長
【編著者からのメッセージ】
「介護事故」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。特別養護老人ホームなどの介護保険施設で、入所者が介護サービスを利用しているときに起きる事故のことで、転倒、転落、誤嚥、やけどなど様々です。訪問介護やショートステイなどの在宅サービスの利用時にも起こり得ます。全国社会福祉協議会が社会福祉施設に対して行ったアンケート調査では、平成10年1月から平成12年12月末までの3年間に、全施設の約8割で何らかの事故が発生しています。利用者に直接的な傷害が及ばなくても、介護職員が思わず「ヒヤリ」としたり、「ハッ」としたりする「ヒヤリ・ハット事例」もたくさん起きています。
介護サービスをめぐっての事故は、これまでも施設内などでは起きていたことでしょう。しかし、介護保険制度導入以前には、措置制度によりサービス提供が行われていましたから、事故が起きても問題化しなかったり、サービス提供の決定権者である市町村が事故の対応をしたりしていました。ところが、利用方法が介護保険制度による契約方式では、事故が起きた時には、社会福祉法人などの事業者や施設職員が、直接その責任を問われ、的確な対応を迫られることになります。事故による損害の賠償をめぐって、訴訟になり、事業者側が敗訴する例もあらわれています。
介護事故防止の取り組みを行うことは、事業者や利用者の双方にとって、不幸な事態の発生を未然に防ぐことになります。また、組織全体で、事故防止に継続的に取り組んでいくことは、損害賠償対策という意味だけではなく、事業者が提供する介護サービスの質の向上につながるものです。介護サービスの質的向上は、介護保険制度下の事業運営に求められている不可欠な要素ですし、利用者にとっても大きなメリットがあるものです。
このような観点から、介護、福祉分野において、事故を未然に防止し、万一事故が発生しても適切に対応してその損害を最小限にとどめる「リスクマネジメント」の重要性が認識され、その取り組みが活発になってきました。全国社会福祉協議会では、平成13年度から「リスクマネジメント」の研修を行うようになりました。また、厚生労働省社会・援護局では、平成14年度に検討会を開催し、「福祉サービスにおける危機管理(リスクマネジメント)に関する取り組み指針」を取りまとめました。
本書は、介護、福祉分野のリスクマネジメントについて、社会保障法が専門である法学者、介護保険制度創設の業務に従事した経験がある行政官、保険に詳しい社会保障学者、ホームヘルパーの経験があるシンクタンクの研究者、東京都内で訪問介護事業を活発に展開している民間企業の経営者、アメリカのナーシングホームにおけるリスクマネジメントに詳しい研究者、介護事故をめぐる訴訟の当事者となった特別養護老人ホームの施設長、具体的にリスクマネジメントに取り組んでいる、特別養護老人ホームの施設長と、実に多角的な観点から分析、解説を試みています。リスクマネジメントに取り組む際の考え方や実際の課題などについて、社会福祉法人や民間事業者、施設経営者、介護事業の従事者、行政関係者など、どの立場の方々が本書を読んでも、立体的に浮き彫りになるように構成しています。
本書が、社会福祉法人や民間企業などの介護事業者、介護・福祉施設の職員、行政関係者、そして介護サービスの利用者の方々にとって、リスクマネジメントの理解と実践に役立ち、事故の防止や介護サービスの質の向上につながるならば、編者達としては望外の喜びです。
そもそも本書は、編者たちが平成14(2001)年1月から始めた「リスクマネジメント研究会」の成果を基にしています。この研究会では、本書の各章の執筆者をはじめ、弁護士、ジャーナリスト、損害保険会社社員、社会福祉法人理事長、社会福祉協議会職員など、リスクマネジメントに関心があるメンバーが自由に集まり、毎回、活発な議論を交わしました。また、全国社会福祉協議会企画部におかれては、研究会に出席していただくばかりでなく、会議室を提供していただきました。研究会のメンバー、全国社会福祉協議会など多くの方々に深く感謝いたします。(「はしがき」より)
【各章の概略】
本論に入る前に、各章の概略と全体図を明らかにしておきたい。
第1章「利用者の視点からみたリスクマネジメント」(菊池馨実執筆)では、法学研究者である著者が、利用者側の視点に立って、主として介護老人福祉施設(特別養護老人ホーム)を中心に、介護リスクマネジメントのあるべき方向性を明らかにしている。そこでは、必要とされる具体的諸方策を、前提的要素・事故予防策・事後的対応策に分け、施設・事業者と職員との法的主体性の相違を意識しながら明確化し、介護リスクマネジメントにあたって重要なのは、利用者および家族との信頼関係の構築、そしてそれを可能にするための適切なケアマネジメント、なかでもアセスメントであると結論づけている。また、こうした実務上の対応策を超えた制度論的課題(資格制度の見直し、施設区分の見直しなど)についても論じられている。
第2章「施設・事業者にとってのリスクマネジメント」(増田雅暢執筆)は、行政の立場にある著者が、社会福祉および介護分野の施設・事業者とりわけ社会福祉法人の経営者の側から、施設経営・事業運営におけるリスクを、業務リスク、経営リスク、存続リスク、災害等リスクと広くとり、それぞれにつきどう対応すべきかについて明らかにしている。利用者事故という業務リスクに対するマネジメントのあり方については、厚生労働省社会・援護局の検討会報告書や、医療分野でのリスクマネジメントの取り組みを参考にしながら論じている。その内容は、視点を異にしながらも結論的には第1章と共通する部分が多い。また、社会福祉法人におけるリスクマネジメントに向けた取り組みの実例を挙げている点でも参考になろう。
第3章「賠償責任保険と介護リスクマネジメント」(長沼建一郎執筆)は、保険論を専門にする著者が、介護リスクマネジメントとの関連できわめて重要な役割を果たすことが期待されるにもかかわらず、検討対象とされることがほとんどなかった賠償責任保険を取り上げている。ここでは、介護サービス自体に起因する事故に焦点を当てる趣旨から、居宅サービス事業者賠償責任保険の仕組みや実務を紹介している。さらに、表面化していないものの、数多く考えられる潜在的な論点についても試論的に検討している。これらの論点は、法律論と密接に関連しており、施設・事業者にとってはやや難解かもしれないが、査定システムがいわばブラックボックスであるなど、保険会社との「情報の非対称性」を埋め合わせるためにも、今後必要とされる前提知識と思われる。
第4章「在宅介護現場に望まれるリスクマネジメント」(堀田聰子執筆)は、10年以上にわたるホームヘルパーの実務経験を有する民間シンクタンク研究員の立場にある著者が、ともすれば軽視されがちな介護従事者(とくに在宅現場の第一線で働くホームヘルパー)の視点から、リスクマネジメントのあり方を論じている。第1章・第2章がどちらかといえば施設中心の議論であるのに対し、本章と第5章は施設と在宅の特性の違いを踏まえ、事業者のコントロールが直接には及ばない(その反面、ヘルパー等にとっては不安や孤立・重責感を持ちやすい)在宅介護を十分念頭に置いた議論である点で参考になろう。とくに本章では、在宅介護現場のリスク特性を明らかにした上で、現場をもっともよく知るヘルパーらの積極的な協力が不可欠であることを踏まえて、在宅介護現場へのリスクマネジメント導入に向けての処方箋を提示している。同章で、在宅介護現場におけるリスクとは、「不安」と「関係性の崩壊」にあるとしている。
第5章「民間居宅サービス事業者におけるリスクマネジメント」(香取幹執筆)は、最近着実に業績を伸ばしている民間居宅サービス事業者の立場にある著者が、民間企業におけるリスクマネジメント(ビジネスリスクマネジメント)の考え方を、具体的事例を素材として検討することを通じて、その福祉業界におけるリスクマネジメントへの転用可能性について論じている。民間企業におけるコーポレートガバナンスや、その当てはめとしての医療事故をめぐる実例を通して、議論を展開している点で説得力があり、これまで「運営」的感覚が中心で「経営」的感覚に乏しかったと思われる福祉業界にとっては参考になる部分が多い。ともすれば福祉業界への参入に対し批判の眼が向けられがちな民間事業者が、ここまで真摯にリスクマネジメント(及びサービスの質の向上)に取り組んでいる姿勢は、社会福祉法人など既存の「福祉業界」にとって、襟を正すべき面があるとは言えまいか。また、ISO9000規格とリスクマネジメントの手法の類似性に着目し、同規格の要求事項である「是正処置」にしたがって原因を特定し、リスク管理の具体的な方法を提示している。第4章と同様、事業者としての対応に欠けがちな在宅介護現場におけるリスクマネジメントの具体的手法を明らかにしている点でも参考になろう。
第6章「カリフォルニアにおける施設のリスクマネジメント」(大石克子執筆)は、最近わが国との対比で紹介されることのあるアメリカでの施設リスクマネジメントの最近の状況を、カリフォルニア州を例に紹介した上で、わが国における社会福祉実習のあり方に照らし合わせて検討したものである。著者は、日本の特別養護老人ホームでの多年にわたる生活指導員としての経験をベースに、社会的文化的諸状況の相違を踏まえた上でカリフォルニアの施設事情を論じている点で、よくありがちな単なる外国制度の「肯定的」「賛美的」紹介にはとどまっていない。また、ここで紹介されている社会福祉実習にかかるわが国の事例は、本書で展開している「高尚」なリスクマネジメント対策を云々する以前のわが国福祉・介護現場の「現状」の一端を示していることは否定できないように思われる。
第7章「介護事故関連裁判例からみたリスクマネジメント」(菊池馨実執筆)は、最近散見されるようになった狭義の介護事故を中心としながらも、それにとどまらないより広い視野から従来の裁判例を参照し、介護リスクマネジメントのあり方を探る上で有益と思われる視点を提示しようと試みたものである。なかでも高齢者施設での介護事故裁判例は、現実に生起した事案として多くの示唆を含むものであろう。また、その他の関連裁判例をも踏まえた考察から、第1章とも共通する介護リスクマネジメントのあり方が、再度論じられている。
補章−1「『リスク・マネジメント』か『生活リスクの共有』か」(岸田孝史執筆)は、第7章でも取り上げられる誤嚥死亡事故裁判例に被告側として直接かかわった特別養護老人ホーム施設長である著者が、当該事故・裁判の教訓などを明らかにしたものである。高齢者の「生活リスク」についての共通理解を基礎にして、不断に相互理解を深め合う努力をする以外に問題解決の道はない旨の指摘は、現場からの切実かつ説得力ある主張として非常に重みをもつものである。
補章−2「身体拘束とリスクマネジメント」(松本憲二郎執筆)は、特別養護老人ホーム施設長である筆者が、リスクマネジメントの一環としての施設でのリスク調査を通じて、従前のケアが職員の「業務」優先であったことに「気づき」、そこから利用者の「生活」優先のケアへと取り組んでいった一連のプロセスを、具体的に論じたものである。こうした介護の「質」の変化が、真の意味での介護リスクマネジメントを可能にする施設を作り上げるとの論旨は、綿密な分析・実践を通じての現場からの指摘であるだけに説得力がある。
補章−3「誤嚥による死亡事故の一事例――和解の成立に至るまで――」(菊池馨実執筆)は、第1および7章の著者が、ある特別養護老人ホームにおいて発生し、裁判上の和解により解決をみた誤嚥死亡事故について、前施設長にインタビューし、その事案、和解に至る経過、教訓などにつきまとめたものである。補章−1と同様、実際に生起した事例である点で、多くの示唆を与えてくれるものと思われる。
以上、各章の概略を述べることによって、本書の内容の一端を明らかにした。研究会での議論を共通の土台にしているとはいうものの、数多くの執筆者の手によるものであることから、必ずしも各章が有機的関連性をもって構成されているわけではない。また個別論点になるほど、各執筆者の見解が一致しているわけでもない。そうした中でも、本書を通読していただくことにより、置かれた立場もアプローチの仕方も異なる各執筆者の提示する福祉・介護リスクマネジメントのあり方について、むしろ共通した要素が非常に多い点に注目していただきたいと思う。
また本書の各章は、最近巷で見受けられることのある、いわゆる「ハウ・ツーもの」ないし「Q&A式」の単なる情報提供のレベルにとどまることを意図していない。論点の検討や政策的提言にまで及んでいる点で、学問的にも今後この領域での先行業績となるべく編集を行ったものである。このことは、見方を変えて言えば、まさにこれから本格的に取り組まれるべき問題であること、そしてその問題の奥行きの深さを示すものであるといえよう。
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